日本古楽界の源流を探る(2)
昭和5年発刊のレコード音楽雑誌「Disque」。今回は昭和8年(1933年)5月号をご紹介。昭和初期やっとクラシックレコードが国産開始後(それまでは輸入盤のみ)たった2年でレコード紹介雑誌が日本で相次いで3誌も発行されるようになったとの事。世界的にも英国が一番早く1922年にレコード雑誌発行、米国が1926年、仏国はナント日本より遅く1934年ですから、当時の日本のはるか彼方の西洋音楽への関心の高さには驚かされます。
この昭和8年5月号、まずは本編冒頭に古楽復興の立役者ドルメッチのリュートの演奏写真が掲載されておりビックリ。 当時のレコード愛好家はこの写真を見てどんな音楽を想像していたのか興味深々ですが・・・。
この号の目次を見ると冒頭の特集が「バッハの大彌撒のレコード」(アーノルド・コーツ指揮ロンドンシンフォニー&フィルハーモニック合唱団1928年頃発売) これはHmollミサ曲のことですね。あらえびす氏の曲の詳しい紹介の中にチェムバロを使っていることを褒めていたり、楽団の配置に文句をつけていたり(録音用の並びでは原曲の精神と作曲家の気持ちが無視されるとの事)、雑音混じりで聴こえるバッハの大曲に結構辛辣な講評をされているのが凄い。
次の特集は「The Forty-Eight Society The Clavichord」。冒頭から「野暮と云う語がある。今更ら平均律洋琴のことなど喋々するのが即ちそれであるが・・・」との文章で始まるドルメッチのクラヴィコード演奏によるバッハ平均律第1巻全集の紹介記事、1933年に「今更ら平均律」と言う姿勢には驚愕。記事はまず長い平均律の紹介から始まるのですが、曲集の音楽的な解説や後世の作曲家達への影響、そしてクラヴィコードで演奏する事への賞賛(ドルメッチは以前の録音よりクラヴィコードが上達しているなんて書いてあります)などの中に、
「適當に調律せられたる洋楽のため」の曲集を何故にバッハが作ったと云う動機は申す迄もなく所詮平均律宣伝のためであらう。1オクターブ12の鍵盤を持った1個の洋琴に依つて、1切のキーを実際的に大なる支障なく演奏し転調し得る如くに調律の誤差コンマを、分配するため五度に依つて調律したKlavierを宣伝するためには、先ず以つて音楽は一切のキーで奏されなければならないことを立証する必要があった。」
との現代以上に真実を理解しているのでは?と思える文章も登場。この時期「四十八協會」日本が設立されたことも紹介されてます。いかにドルメッチのクラヴィコードによる平均律の演奏に関心が高まっていたかが判ります。
他にも「フランス民謡Bourreeの話」としてブーレの踊りのステップ図が楽譜と一緒に掲載されていたり(我々はクープランやラモーの諸作品の中にブーレの名を発見しますが・・・なんて文もあります)、フランスのバロック曲の解説では「クラヴサン」、ドイツモノでは「チェムバロ」、演奏楽器にはハープシコードと器用に楽器名称を使い分けていたりと当時の愛好家達の音楽的知識の高さには脱帽です。
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星加氏の検索でたどり着きました。
ドルメッチ氏のモノクロ写真に星加氏が重なります。
投稿: ラッソー | 2010年10月24日 (日) 21時13分